電波少年で人気を博した、台湾人のチューヤン

カタコトの日本語で話すチューヤンと伊東高史で明友(パンヤオ)として活躍しましたが、番組終了後はほとんど見なくなってしまいました。

そんなチューヤンの現在とは、一体…。

プロフィール

チューヤン(本名は謝昭仁。チェ・チーウヤン)広告ディレクター、グラフィックデザイナー、ラジオパーソナリティ。

1972年8月4日生まれ。

1998年から2005年2月までの間、日本でタレント活動をしていた。

当時の所属事務所はRING。

1998年、バラエティ番組『進ぬ!電波少年』の企画で、伊藤高史と共にアフリカ・ヨーロッパ大陸縦断のヒッチハイクに挑戦するパートナーのオーディションに参加。

「自分の人生を変えたいんです」との言葉が決め手となり、100人以上の志願者の中から選ばれた。

2人のチーム名は広東語で『友達』を意味する朋友(パンヤオ)と名づけられた。

当初、日本語は全く理解しなかったが、旅の期間中に伊藤高史から少しずつ教わり、旅の終盤ではカタコトの日本語を話せるようになっていた。

その広東語訛りの口調が魅力となり、日本での芸能活動の中で定着した。

日本の漫画を日本語教材代わりにしており、特にあだち充のファンだった。

1999年1月、『進ぬ!電波少年』の司会者となり、番組の企画へも頻繁に参加させられた。

また、『雷波少年』の企画「チューヤン・ジャパンツアー」も同時に行っていたため、日本全国を旅しながら司会の仕事のために東京までスタッフの手助けなしで戻る、という日々が続いた。

1999年4月にジャパンツアーが終了すると、それまで司会者のいなかった雷波少年の司会者に就任。

2005年2月、「父親の体調が良くないので、そばにいてあげたいと思った」として日本の芸能界を引退した。

電波少年で大ブレイク

チューヤンは1998年に、当時大人気だったバラエティ番組の「進ぬ!電波少年」のヒッチハイク企画で、伊藤高史さんとアフリカとヨーロッパ大陸を縦断する、ヒッチハイクの企画オーデイションを受けて合格し、290日・走行距離2万キロ以上に及ぶ、ガチのヒッチハイクの旅を成功。

香港でお坊ちゃん育ちのチューヤンにとってこの企画は過酷な旅だったそうですが、何とか南アフリカからノルウェーまでゴールしました。

その旅先では英語も話せるチューヤンのおかげで、ヒッチハイクなど海外での生活で活躍できる場面も多くありました。

そんなチューヤンは最初、日本語が話せなかったものの、旅の終盤頃からカタコトの日本語が話せるようになり、人気を博しました。

そして、電波少年のヒッチハイク企画を経てブレイクした後は、進ぬ!電波少年の司会にもなり、様々な企画に出演しました。

その愛くるしいキャラクターとカタコトの日本語で人気を博し、2000年代前半は様々な番組に出演しましたが、2005年に自身の父親の体調が思わしくないことを理由に芸能界を引退し、香港に帰国しました。

今現在、何してる?

香港でラジオのDJをしていたチューヤン。

そんな彼が突然、日本のテレビ番組企画に参加、電波少年に出演し日本に来てからはかなり有名人になっていました。

そんなチューヤンは、現在何をしているのでしょうか。

2005年に芸能界を引退した後は、香港の広告代理店でクリエイティブディレクターとして働いていることを、2009年に日本の特番で明かしています。

また、2009年11月には専門学校時代の同級生と結婚しました。

そして、2010年以降は再び日本のテレビ番組に出演することもありましたが、この番組では「食えているのか…?」というテーマで、現在も香港に帰国したときから働いている広告代理店にそのまま務めていて、ディレクターというポジションとのこと

そのことからチューヤンは2014年に広告ディレクターとなって、年収はなんと950万円であることを告白しています。

日本にいた時の方が年収は高かったそうですが、それでも高所得者ですよね。

ちなみに、中国全体の平均年収は香港の半分くらいらしいので、香港人の富裕層は中国人の超・富裕層となるそうです。

電波少年の出演がきっかけで大人気となったチューヤンは現在、香港で一般人として仕事をしています。

カタコトの愛くるしい日本語で、また日本のお茶の間を沸かしてほしいところですが…

香港でご結婚もされ、さらに広告ディレクターとして活躍しています。

このことからチューヤンは、今後も香港で幸せに暮らしていくことでしょう。