かわいい笑顔で一世を風靡した新田恵利!
そんな彼女ですが、ここ最近あまりテレビで見かけることがなくなっています。
果たして新田は現在どのような生活をしているのでしょうか?
プロフィール
本名 長山 恵利
生年月日 1968年3月17日
出生地 埼玉県上福岡市
血液型 O型
活動期間 1985年 – 1990年、1993年 –
事務所 株式会社こよみ
学歴 埼玉県立福岡高校卒業
職業 歌手、タレント
新田は子供時代、全くと言っていいほど芸能界には興味が無かったのですが、高校生時代に商品のハワイ旅行券を目当てにテレビ出演をしたことから人生が動き始めます。
初出演をしたフジテレビの『夕やけニャンニャン』で、芸能界の壁の高さを実感し、新田は番組スタッフに辞めたいと申し出ましたが、その直後に週刊文春におニャン子クラブの中心メンバーが喫煙しているところを撮られる事件が発覚し、新田は強く慰留されました。
テレビの出演料が高額だったこともあって新田は出演を続けていくことを決めます。
1985年の7月、デビュー曲の「セーラー服を脱がさないで」で中心メンバーに選ばれたことを機に、おニャン子クラブのリーダーとしての地位を確固たるものにしました。
またこの大成功を機に当時就職先の決まっていなかった新田は芸能界で生きていくことを決め、翌年の正月のシングルデビューに向けて精力的に活動しました。
しかしデビュー直前のクリスマスイブ、新田の父は突然死しました。
大のお父さんっ子だった新田にとってそのことは大きな影響を与え、年末の番組収録を休みました。
そんな悲しみを乗り越え、1986年1月1日、新田は「冬のオペラハウス」でソロデビューを果たします。
このシングルは30万枚以上の売り上げを記録するなど絶大なヒットを遂げ、女性初のデビュー曲でのオリコン初登場一位という金字塔を達成しました。
1986年9月、新田は一年半続けていたおニャン子クラブを卒業しました。
その後もタレント活動を続けましたが、1990年、突如作詞家になるために芸能活動を休止しました。
その期間はエッセイを書くなどして文筆活動を続けていましたが、1993年にテレビドラマ「映画みたいな恋したい」の出演を機に芸能活動を再開させます。
この三年後の1996年、「復活夕焼けニャンニャン」の出演時に知り合った男性と恋に落ち、同年中にスピード結婚しました。
2002年にはおニャン子クラブ自体が一時再結成され、その時に新曲「ショーミキゲン」をリリースしました。
若い頃なぜ人気だったのか?
そんな新田ですが、おニャン子クラブ時代は今では考えられないほどの人気を誇っていました。
その理由としては親しみやすさが上げられます。
新田は先述した通り、アルバイト感覚で気軽に活動しており、そのことが自然体な振る舞いにつながって人気を博していきました。
そして、最大の理由とも言えるのが新田の笑顔です。
目がへの字になる100万ドルの笑顔はシングルが大ヒットを遂げた最大の理由とも言われており、いかに笑顔が素敵だったのかが窺えます。
しかし、新田はおニャン子クラブの絶対的エースだったわけではなく、内部は国生さゆりの派閥と勢力を二分していました。
国生は芸能界での成功を夢見て単身上京しており、またスタッフと共に日中のリハーサルや企画にも関わるなど人一倍積極的に動いており、アルバイト感覚で振舞う新田との間には確執がありました。
また、新田が予定にはなかった水着撮影を嫌がり、撮影が大幅に遅れた事件を機に両者は言葉を交わさないようになり、この派閥争いはファンの間にも知れ渡っていくことになります。
しかし、2002年の一時的再結成の際に和解を宣言し、今では対立は過去のものとなっています。
現在の姿
2013年、新田は健康系テレビ番組の出演の際に脳動脈瘤が発見され、健康不安説が流れました。
さらに2014年、母親が骨折によって寝たきり生活になり、新田は介護と芸能活動、更には自身の治療を並行させることを余儀なくされます。
自身の療養は薬による完治を目指しましたが、あまり成果はなく、最終的に2016年に手術を行って切除しました。
こうしたことも相まって新田は広い土地でゆっくり暮らすことを望むようになり、2017年には熱海にバリアフリー対応の豪邸を立てました。
こうした気苦労に関しても新田は病むこともなく、日々前向きに生活をしていました。
新田はその後も母親の介護を精力的に続けていましたが、2021年3月23日、母親はこの世を去りました。
4月6日に公表されたブログによると母親との思い出について書かれた書籍の発売準備が行われているようであり、今後の動向が注目されます。
いかがでしたか?
新田が当初は全く芸能界に興味が無かったのは少し意外ですね。
アルバイト感覚で始めたのに芸能界で確固たる地位を築き上げたあたり、新田の才能が垣間見えます。
母親を亡くして辛い時期かと思われますが、新田には是非この笑顔をお茶の間に届けて私たちを喜ばせてほしいです。