元プロ野球選手の秋山幸二さん

現役時代は高い身体能力で、バク宙を披露したこともあり、当時はメジャリーグに一番近い日本人とも言われていました。

現在引退後は野球解説者や監督も務めました。

今回は秋山幸二さんについて、まとめてみました。

プロフィール

秋山幸二さんは、1962年4月6日生まれの熊本県出身。

元プロ野球選手で、選手時代は西武ライオンズ・福岡ダイエーホークスでプレイしていました。

父はハイジャンプ、母は砲丸投げの選手だったという秋山幸二さんですが、小学校3年生で少年野球のチームに入団。

その後、高校は熊本県立八代高校に進学し、野球部に入部。

監督の勧めもあり、高校時代は投手に転向していますが、3年生の時に県予選の決勝で敗れたため、甲子園出場経験はありません。

当時からプロ野球のスカウトにも注目されていましたが、大学進学の意思が強かった為、ドラフトでは指名されていません。

しかし、西武ライオンズの熱心な説得によちプロ入りを決意し、1981年1月にドラフト外で西武ライオンズに入団しました。

当時の西武の関係者は、秋山幸二さんの運動能力の高さに驚いたと言います。

183㎝、80㎏の体型での身のこなしから、体操選手のようだとも言われ、一部では「野球をやっていたなかっら、オリンピックの十種競技の選手になれた」との声もありました。

入団と同時に三塁手に転向、3年目からレギュラーに定着し、西武黄金時代の一翼を担います。

1987年には外野手に転向し、他の選手が不調の中、1人だけ好調を維持しています。

1989年には、プロ野球史上5人目(当時)のトリプルスリー(3割、30本塁打、30盗塁)を達成。

1990年には、35本塁打・51盗塁を記録し、盗塁王のタイトルを獲得するとともに、プロ野球史上初の「30本塁打、50盗塁」を達成しています。

1993年オフにトレードで福岡ダイエーホークスに移籍しています。

当時のダイエーホークスは弱小チームでしたが、首脳陣は秋山幸二さんが空気を変えてくれることを期待していました。

実際のところ、秋山幸二さんの背中を見てきた選手が、後の福岡ダイエーホークスの中軸となり、現在の競合チームの礎になっています。

1994年オフにはFA権を取得し、他球団へ移籍するのは決定的でしたが、当時の監督の説得と母親の願いによってFA権を凍結し、ホークスに骨をうずめる決意をしたと言われています。

ダイエー時代の2002年に現役を引退し、その後は野球解説者を務め、2009年~2014年までには福岡ソフトバンクホークスの監督を務めています。

娘が話題

秋山幸二さんには、一人娘の秋山真凛さんがおり、2019年に芸能界入りしたことが分かっています。

一時期はプロゴルファーを目指していたこともあったそうで、現在の目標はスポーツキャスターやリポーターだそうです。

中学時代からプロを目指し各地を転戦していましたが、2011年オフに母親が脳腫瘍で入院し、看病のためにプロゴルファーの道を断念。

2014年に母親が亡くなっていますが、闘病中の母親の「したいことをやりなさい」という言葉を胸に芸能界に飛び込んだそうです。

特技は5歳から学んでいる英語、15歳の時に独学で修得した韓国語だそうです。

現在、何してる?

実は秋山幸二さんは2度結婚しており、前妻とは1986年に結婚しすぐに離婚しています。

2番目の妻が、秋山真凛さんの母親で、知り合ったのはスナックだったとか。

現在の秋山幸二さんは、福岡県のテレビ局などで野球解説の仕事をしているそうです。

2003年には、福岡県の中学校の式典で、数学者の秋山仁さんを招待するはずだったのが、依頼者の手違いで秋山幸二さんにオファーをしてしまったという珍事が発生。

依頼者側は謝罪する一方、講演をお願いすると、秋山幸二さんはこの依頼を受けて講演。

その12年後の2015年に同じ町で講演会が行われ、当時の話を語っていたそうです。

また、ソフトバンク監督時代には、選手の打撃練習に加わって本塁打を打ったり、ブルペンで100球以上を投げ、130㎞の球速を記録したこともあり、当時のエイプリルフールのネタで「秋山幸二さんの現役復帰」が発表されたこともありました。

秋山幸二さんと言えば、現役時代にバク宙ホームインをしたことでも知られており、当時はメジャリーグに最も近い選手とも言われていました。

今後は再び指導者に戻るかが注目されていますが、そこはまだはっきりとは分かっていません。

このまま解説者を続けるような気がします。

以上、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。