北朝鮮から奇跡の生還を果たした女性、曽我ひとみ。

そんな彼女ですが、一言では語れないような壮絶な人生を歩んできました。

そこで今回は、曽我の人生の軌跡について紹介していきたいと思います。

プロフィール

生誕 1959年5月17日(63歳)

出身地 新潟県佐渡郡真野町

別名 ミン・ヘギョン(北朝鮮での名)

家族 チャールズ・ジェンキンス(夫)

曽我は新潟県の佐渡島にて、曽我茂と曽我ミヨシの長女としてこの世に生を受けました。

曽我は中学校時代、バトミントン部に所属し、そこで毎日汗を流す日々を過ごしていたのです。

曽我は中学校卒業後は高校への進学を望んでいましたが、家庭の事情もあってか就職の道を選択し、看護師になるために佐渡総合病院付属准看護学院に入学しました。

そこで曽我は指導の厳しさに耐えつつも、ひたむきに努力を積み重ねていました。

また曽我は高校進学への道を諦めたわけではなく、准看護学院に入学するのと同時に佐渡高等学校定時制課程沢根分校に入学したのです。

曽我は准看護学院が終わるとすぐに病院からバスに乗り、夕食も取らずに夜間高校の授業を受けていました。

また曽我は夜間高校にてバスケットボール部に所属しており、授業を終えた後は部活動に参加していました。そのようなこともあって曽我が病院に併設してある寄宿舎に戻るころには23時近くになっており、相当ハードな日々を過ごしていたのです。

そんな中でも曽我はひたむきに努力を重ね、1977年には准看護学院を卒業して外科外来にて働くようになりました。

病院勤務が始まってからは曽我のスケジュールはますます殺人的になりましたが、それでも曽我は勤務と通学を両立させていったのです。

そんな中1978年8月12日、曽我は土曜日ということもあってか午前中の診察を終了し、自宅に帰りました。

その後曽我は母親と夕食の買い出しのために、400メートル先の雑貨店まで出かけました。

2人が買い物を済ませて帰宅していると、屈強な男たち3人がつけてきていることに気付いたのです。

二人は早足で歩いて何とか巻こうとしましたが、家まで数十メートルという距離のところで男たちは二人にとびかかり、そのまま目立たない木陰に引きずり込まれました。

そして二人は別々に袋に入れられ、どこかへ運ばれたのです。

なお曽我はその日以来一度も母親と会っておらず、それは拉致された先の北朝鮮でも同じでした。

子供の今

曽我には娘が二人おり、いずれも北朝鮮にて生を受けました。

長女の曽我美花は1983年生まれであり、現在は佐渡島にて保育士の仕事をしています。

また家族三人で父親の墓参りに行くなどしており、家族仲は現在でも良好です。

次女の曽我ブリンダは1985年に生まれており、酒造会社にて働いています。

ブリンダは勤め先の酒造会社の人と結婚しており、そちらにて幸せな家庭を築いています。

この件について曽我は「嫁ぎ先で仲良く生活しています。私は母親として安心して見ています」と語っており、次女とも現在も良好な関係を築いていることが窺えます。

また夫のチャールズ・ジェンキンスは北朝鮮より帰国後、アメリカ軍の軍法裁判を受け禁固30日の刑を受け、刑期満了後に晴れて自由の身となりました。

その後ジェンキンス氏は佐渡島に移住し、佐渡市の観光施設に就職しました。

また2005年に「告白」という回顧録、2008年に「望まぬ中での共産主義―逃亡と北朝鮮における40年間の懲役」という本を上梓するなど、自身の経験を伝える執筆活動も行っていました。

2008年には永住許可を日本政府から貰っており、本人も日本に永住するつもりであることを改めて表明しました。

そして2017年12月11日、ジェンキンスは体調不良にて病院に搬送され、その日のうちに77歳の波乱万丈な人生に幕を閉じました。

なお死因についてはMRI検査などをしても突き止めることが出来ず、死亡診断書には致死性不正脈と書かれることとなりました。

現在

2002年9月17日、小泉純一郎首相が北朝鮮を訪問して日朝首脳会談を開き、そこで日本人拉致被害者の存在を金正日総書記が認めました。

それに伴って曽我の存在も日本政府に認知される事となり、帰国のめどがようやく立ちました。

10月15日、曽我は飛行機にて平壌国際空港を出発し、その2時間後には羽田空港へと降り立ちました。

そして10月17日には佐渡島へと帰り、24年間帰れなかった家へようやく帰宅出来ました。

その翌日自身が通っていた高校にてたった一人の卒業生のために卒業式が行われ、夢にまで見た卒業証書を受け取りました。

現在曽我は介護施設で働く傍ら、一緒に拉致された母親の救出のために活動しています。

いかがでしたか?

曽我が厳しいことで知られる看護学校と夜間高校を両立させ、さらにバスケットボール部でも活動していたことは少し意外でしたね。

一日も早く曽我の母親の消息が見つかり、願わくば生きて再会を果たすことが出来ることを望みます。