千葉 すずさんをご存知でしょうか。

千葉 すず(ちば すず)さんは、神奈川県横浜市保土ケ谷区出身(実家は仙台)の元競泳選手です。

専門は自由形で1992年のバルセロナオリンピック、1996年のアトランタオリンピックに日本代表として出場されました。

シドニーオリンピック直前の選考会である日本選手権で五輪A標準記録を突破して優勝したが、代表選考から外されたため日本人として初めてスポーツ仲裁裁判所に提訴したもののオリンピックに出場することはできなかったエピソードは有名です。

プロフィール

名前:千葉 すず(ちば すず)

生年月日:1975年8月11日

出身地:神奈川県横浜市

競泳選手:自由形

・現役時代まで

5歳から競泳を始め、小学校5年生の時、400m自由形で日本学童新記録を樹立し、一躍脚光を浴びます。

近畿大学附属中学校入学と同時に大阪イトマンスイミングスクールに所属します。

日本選手権で3冠を達成するなど、国内では無敵を誇り、1991年の世界水泳選手権(オーストラリア、パース)400m自由形で3位に入り銅メダルを獲得しました。

同年カナダのエドモントンで行われたパンパシフィック水泳選手権では200m自由形と400m自由形で銅メダルを獲得しました。

近畿大学附属高等学校在学中の1992年バルセロナオリンピックでは、200m自由形6位入賞、メドレーリレー7位入賞、400m自由形8位入賞、100m自由形9位という成績を収めます。

それから3年後、1995年アトランタで開催されたパンパシフィック水泳選手権で200m自由形で金メダルを獲得し、翌1996年アトランタオリンピックの有力優勝候補と目されました。

しかし、アトランタオリンピック本番では個人決勝種目で決勝レースに進めず、200m自由形10位、400m自由形13位に終わりました。

さらにメドレーリレーでも予選落ちとバルセロナオリンピックの成績を下回ってしまいます。

新種目だった800mフリーリレーでアンカーを務めましたが、惜しくも4位入賞に留まりメダル獲得はなりませんでした。

7月26日のテレビ朝日の『ニュースステーション』でキャスターの久米宏の衛星中継を通じたインタビューに千葉は「オリンピックは楽しむつもりで出たんで」「そんなにメダルというなら自分でやればいいじゃないですか」「日本の人はメダル気違いですよ」という趣旨の発言をして論議を呼びました。

水泳界から一時離れて、1997年にアメリカの永住権を獲得しましたが、1998年9月に現役復帰宣言をします。

1999年6月の日本選手権では100m・200m自由形でそれぞれ当時の日本新記録を達成し見事に復活しました。

カナダを拠点に練習を積み、翌2000年シドニーオリンピックの競泳日本代表選考を兼ねた第76回日本選手権に出場し、日本水連が代表選考の条件の一つとしていた、国際水泳連盟(FINA)が指定する五輪A標準記録2分0秒54を突破して200m自由形で優勝したにも関わらず、シドニーオリンピック代表には選出されず落選となります。

千葉はこれを不服として、スポーツ関連問題を一括して取り扱う国際機関「スポーツ仲裁裁判所」(CAS 本部:スイス・ローザンヌ)へ提訴します。

千葉の訴えは全面的には認められなかったものの、裁定では日本水泳連盟側にも選考基準の曖昧さがあったことを認め、訴訟費用の一部負担を言い渡しました。

結果としては、シドニー五輪には出場を果たすことなく、そのまま現役引退となりました。

・引退後

引退後は、2000年11月のキヤノン「キヤノン ファクスホンH-50CL」のコマーシャルに出演します。

2002年、イトマンスイミングスクール時代からの知り合いでカナダ時代の練習仲間である山本貴司さんと結婚しました。

夫の山本さんはアテネオリンピックの200mバタフライで銀メダルを獲得し、その影には千葉の体づくりに気をつかった食事、プールサイドでのアドバイスなどがあったといわれています。

アテネオリンピック前の『Number』誌では山本さんについて「やっぱりメダルを取ってほしいと思います」と発言していました。

2004年11月22日、夫とともに「パートナー・オブ・ザ・イヤー2004」を受賞、2005年7月、第一子となる長男を出産し、2007年2月には第二子となる長女を出産しました。

現在はスポーツ推進会社ヴィクトリーベルに参画しています。

2005年には三隅町制50周年記念事業として水泳講師として招待されます。

2014年11月1日付で「ユネスコ無形文化遺産石州半紙PR大使」に委嘱されました。

2016年7月1日から「浜田PR大使」に委嘱されています。

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