マイク・タイソン(Mike Tyson)さんをご存知でしょうか。
マイク・タイソンさんは、アメリカ合衆国の元プロボクサーです。
ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区ベッドフォード・スタイベサント地区の出身で、現在はスタンドアップコメディアンとして活動しています。
プロフィール
マイク・タイソンさんのプロフィールです。
本名:マイケル・ジェラルド・タイソン(Michael Gerard Tyson)
通称:アイアンマイク、マイティーマイク、キッド・ダイナマイト
階級:ヘビー級
身長:180cm
リーチ:180cm
国籍:アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
誕生日:1966年6月30日(52歳)
出身地:ニューヨーク州ニューヨーク市
ブルックリン区ベッドフォード・スタイベサント地区
スタイル:右ファイター(ピーカブー)
プロボクシング戦績
総試合数:58
勝ち:50
KO勝ち:44
敗け:6
無効試合:2
タイソンさんは、1966年6月30日、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区ベッドフォード・スタイベサント地区に生まれました。
家族には5歳年上の兄ロドニーと2歳年上の姉デニスの2人がいます。
兄は医師助手として、Los Angeles County-University of Southern California Medical Centerに勤めていて、弟のキャリアを支えており、タイソンさんのラスベガスでのボクシング戦で何度か目撃されています。
タイソンさんは兄についてインタビューされた際に「兄貴とは深い絆で結ばれている。兄貴はいつも立派だったが自分は何もなかった。」と述べています。
なおデニスさんは心臓麻痺で1991年に25歳で死去されました。
父親のJimmy Kirkpatrickはタイソンさんが2歳のときに家族を捨て蒸発しました。
以後、家族は母親のローラ・スミス・タイソンさんによって養われます。
母親はタイソンさんが16歳のときにタイソンさんのボクシングマネージャーだったカス・ダマトさんの手に託して死去されました。
以後、ダマトさんはタイソンさんの法的保護者となりました。
タイソンさんが幼い頃、一家はブルックリン区内に住んでいました。
経済的な問題で、家を転々とした後に、タイソンさんが7歳の時に当時のアメリカ合衆国の中でも最悪のゲットーと呼ばれていたブルックリン区ブラウンズヴィルに落ち着き、タイソンさんはそこで育つことになります。
幼少の頃は内向的な性格だったそうです。
現在でもその独特の甘えたようなイントネーションにその名残がうかがえます。
スポーツジャーナリストの二宮清純さんは、タイソンさんへの取材を通じてタイソンさんに対し自閉症児の様な印象を受けたと語っています。
実際、タイソンは自閉症ではないが躁うつ病と診断されており、長期に渡り治療を受けていました。
内向的な性格で、大きな近眼鏡を着用していたことから、近所の不良少年達に嘲笑されいじめの対象となりました。
だが、大事にしていたペットの鳩を年上の不良グループの少年たちに目の前で殺され、我を忘れてその不良達を殴り倒したことから自身の強さに気付き、徐々に荒んだ生活へ進むことになります。
12歳までに51回も逮捕され、ニューヨーク州でも最悪の少年が収容されるトライオン少年院に収監されます。
そこで更生プログラムの一環として行われていたボクシングと出会い、少年院のボクシング担当教官だったボビー・スチュワートから手ほどきを受けました。
そのことがカス・ダマトに伝わり、タイソンの才能に驚愕した彼が身元引受人となったため少年院を出所後、ダマトの下でボクシングの英才教育を受けることになります。
まずはアマチュアボクシングでキャリアをスタートし、13歳の時に初試合を行いました。
数年間キャリアを積んでいき、ジュニア・オリンピックのタイトル等を獲得しました。
その後ロサンゼルスオリンピックへの参加を狙うが、国内予選の最終選考会の決勝戦でダウンを奪いながら判定負けを喫し、オリンピックへの参加は叶いませんでした。
タイソンさんのアマチュアでの通算成績は記録に残っている中では52戦47勝5敗ですが、USアマチュアボクシング連盟の管理下にない非公式の試合も多く戦っているため、正確な戦績は不明です。
全盛期〜引退
1985年3月6日に18歳でプロデビューし、ヘクター・メルセデスに1RTKO勝ちで初戦を白星で飾ります。
この年、11連勝を飾った直後、保護者であり、トレーナーのカス・ダマトさんが死去します。
その後、通算27連勝し1986年11月22日、28戦目にしてトレバー・バービックに2RTKO勝利し、WBC世界ヘビー級王座を獲得します。
史上最年少(20歳5か月)で世界ヘビー級王者となります。
翌年、1987年3月7日にはジェームス・スミスに判定勝ちし、WBA世界ヘビー級タイトルも獲得します。
さらに同年8月、トニー・タッカーに判定勝ちしてIBF世界ヘビー級タイトルを獲得して3団体統一に成功しました。
1988年2月に、元ファッションモデルで女優のロビン・ギヴンズさんと結婚(TVでギヴンズを見かけて一目惚れしたのが始まりだそうです)。
しかし、すぐに離婚します。
タイソンさんが支払った慰謝料は1000万ドルだったそうです。
通算9度の防衛に成功しますが、1988年に行われたマイケル・スピンクス戦後、カス・ダマトさんがその生前「グリズリーには近づいても、ドン・キングには近付くな」と絶対に組んではいけないと言っていたドン・キングさんのプロモートを受けることになります。
それ以来、精彩を欠くようになり、一般的にこの1988年までがタイソンさんの絶頂期と言われています。
2005年6月12日、前回の試合で傷めた膝を手術し復帰します。
無名のケビン・マクブライドを相手に戦うも、年齢から来る体力の衰え、そして膝の怪我の影響からか動きに精彩を欠き、6ラウンド終了後棄権しTKO負けとなりました。
試合後のリング上でのインタビューで 「もうこれ以上、ボクシングを侮辱したくない」 と、引退を示唆しました。
正式な引退発表をしなかったが、結局はこれが最後の試合となり、1985年のプロデビューから2005年まで丸20年のプロキャリアに終止符を打ちました。
現在の姿
現在はラスベガスを中心に活動しているようで、スポーツ関係の記念品を展示販売しているショップなどでサイン会や記念撮影をしているそうです。
プラネットハリウッドのミラクルマイルショップスにある「TRISTAR」では定期的にイベントが開催され、タイソンさんの来店に合わせてグッズのセールが有ったりするそうです。
穏やかな表情が今のタイソンさんの全てを表しているのかもしれません。