江夏 豊さんは野球界のレジェンドで、数々の記録を持っている、人気、実力をかね揃えた伝説の野球選手です。

引退後阪神の監督を務めてもいらっしゃいました。

覚せい剤問題で逮捕、実刑を受け、服役していた江夏 豊さん。

いまだに破られていないシーズン401奪三振を達成した現役時代のエピソードや、釈放後の現在の活躍についてまとめてみました。

詳しく見ていきましょう。

プロフィール

本名:江夏 豊(えなつ ゆたか)

野球選手

生年月日:1948年5月15日(73歳)

出身地:兵庫県

身長:179 cm

体重 :90 kg

初出場 :1967年4月13日

最終出場:1984年7月12日

幼少期に両親の離婚後、二人の兄と共に兵庫県尼崎市へ引っ越し、高校卒業まで育ちます。

少し複雑な家庭環境で育ち、江夏の兄弟姉妹は全員父親が異なります。

しかし兄弟関係は良好で、子供の頃、兄から「お前は左でやれ」と左利き用のグラブを与えられ、強制的に左利きへ矯正されます。

中学校では野球部に入るも、上級生と揉め、問題を起こし退部します。

この時の監督から「野球が上達したいなら、色んなスポーツを体験するように」と諭され、バレー・相撲・陸上を経験し、砲丸投げの選手として県大会で優勝したこと経験もあります。

高校時代は1966年の全国高等学校野球選手権大会大阪大会予選では準決勝に進出し、その活躍がスカウトの目に留まります。

1966年に行われたドラフト会議において、阪神タイガース・読売ジャイアン他4球団から1位指名を受け、抽選の結果、阪神へ入団が決まり、背番号を28にします。

新人1年目はシーズン最多奪三振を記録した一方で、12勝13敗と負け数が上回り、新人王のタイトルも獲得ならず・・。

1968年のキャンプで、投手コーチの林義一に、癖を矯正され、変化球を仕込まれます。

そのおかげで、開幕から前年を上回るペースで勝利し、トップスターへの階段を上ります。

では、次に覚醒後の江夏豊さんの数々の功績を確認していきましょう。

覚醒後の成績

1968年のキャンプ以降、覚醒し、成績がどんどん調子があがっていきます。

1968年、日本記録を更新するシーズン354奪三振を記録します。

翌年、奪三振数を最終的に401個まで伸ばし、現在でも日本プロ野球記録を持っています。

当時、江夏豊さんは王貞治から三振を奪うことにこだわっております。

永遠のライバルとして数々の死闘が語り継がれています。

他にも最多勝利(1968・73年)、最優秀防御率(1969年)、最優秀投手・沢村栄治賞(共に1968年)のタイトルを獲得するなど日本を代表する投手となります。

しかし、成績と反比例するように人間関係は悪くなっていきました。

1973年シーズン終了後、江夏は金田監督との確執が浮き彫りになります。

1974年には吉田義男とも性格が合わず、さらに次に村山監督とも不仲になったことから「一匹狼」という異名を付けられます

体調不良や、人間関係の問題で、成績は年々下降していきました。

その後、南海ホークスへ移籍します。

そこで出会った、野村監督と師弟関係になり、成績もまた調子を戻します。

血行障害や心臓疾患などに悩まされるも、好成績を収め、1977年広島東洋カープへ移籍します。

気の合う衣笠という親友もできて、「最も愛着があるのは最初の球団である阪神だが、最も楽しかった時代は広島」と述べています。

1979年から1983年までの日本ハム時代には史上初となる全12球団セーブの記録も達成しました。

1983年から西武へ移籍し、調子があがらず2軍落ち、現役引退を表明します。

1985年からはラジオ日本野球解説者、スポーツ野球評論家として活動する傍ら、TV番組に出演するなど、マルチタレントしても活動していました。

そんな輝かしい功績を知っているファンを驚かせたのは、覚せい剤で逮捕された事件です。

では、次に覚せい剤問題について、詳しく見ていきましょう。

1993年3月2日、覚醒剤取締法違反(所持・使用)の現行犯で逮捕され、世間に衝撃が走りました。

裁判時、情状証人として親友・野村克也、衣笠祥雄が出廷し、情状酌量を訴えます。

判決では、懲役2年4ヶ月の実刑判決を言い渡されます。

その後、静岡刑務所に収監され、1995年4月に仮釈放されました。

現在

では、江夏 豊さんの現在は?

仮釈放されてから1ヶ月後の6月には文化放送のラジオに出演し、野球の論評を行っています。

その後、15年間野球評論家を務めたほか、野球解説者も務めていました。

一流プレーヤーの解説は、わかりやすくて好評でした。選手を君付けで敬意を込めて呼ぶ方法を最初に始めたのは江夏さんです。

また、監督としても阪神タイガースにおいては2015年には一軍春季キャンプ、2016年には二軍春季キャンプでそれぞれ臨時コーチを務めました。

数々の功績を称え、現在も「20世紀最高の投手の一人」と言われ、広島・日本ハム時代の優勝に貢献したことから「優勝請負人」というあだ名もあります。

過去に人間関係の不和、覚せい剤で逮捕されたりしましたが、未だ打ち破られていない日本記録を保持しており、野球界への貢献は計り知れません。

これからも生きる伝説として、後世への育成など活躍してほしいですね。