薬師寺保栄さんをご存知でしょうか。

薬師寺 保栄さん(やくしじ やすえい)は、元プロボクサーでタレント、俳優、ボクシング解説者として活動されています。

大分県津久見市出身で、2歳から4歳まで徳島県池田町で過ごしていました。

その後、愛知県小牧市で育ち、プロボクサーになります。

現役時は松田ボクシングジム所属し、元WBC世界バンタム級チャンピオンで4度王座を防衛しました。

プロフィール

名前:薬師寺 保栄(やくしじ やすえい)

生年月日:1968年7月22日

年齢:49歳(2018年3月現在)

出身地:大分県津久見市

職業:ボクシング解説者、タレント、俳優

プロボクシング戦績:

総試合数:28

勝ち  :24

KO勝ち:16

敗け  :3

引き分け:1

アマチュアボクサーだった父親の影響でボクシングを始め、享栄高校時代はインターハイのフライ級に出場し、ベスト16の成績を残しました。

高校1年の時にテレビで見たトーマス・ハーンズに憧れ己のファイトスタイルに取り入れたそうです。

高校卒業後の1987年、享栄高校の2年先輩で日本王座獲得して間もない畑中清詞が属する、名古屋市の松田ボクシングジムに入門し、同年7月にプロデビューを果たしました。

デビュー当時は「打ってはすぐに退いてしまう」スタイルから「臆病者」と称されたこともありましたが、デビュー6戦目までの戦績は3勝(1KO)2敗1分と平凡なもので、中日本フライ級新人王こそ獲得しました。

しかし、周囲からは「将来、世界どころか日本王者にすらなれない」と酷評されていたそうです。

1989年、成人式の1月15日に暴走族時代の後輩達と並走しているところを愛知県警察に発覚し、3月1日道交法違反(共同危険行為)で通常逮捕され16日間勾留されたそうです。

日本ボクシングコミッションからも6か月間の対外試合禁止処分を受けましたが、その間に東南アジアに遠征しました。

この遠征が飛躍のきっかけとなりました。

高校時代から磨いてきた長身を生かしたアウトボクシングと切れ味・スピード抜群の右ストレートで頭角を現します。

1990年6月、北海道で米坂淳と対戦。

最終10回にKO勝ちを収めるも、試合後に米坂が意識不明の重体に陥り、数日後に死亡してしまいます。

対戦相手の生命を奪ってしまった罪悪感から一時は引退も考えたそうですが、「彼の分まで、という考えはなかったけれど、このままオレがダメになったら、もっとダメだし…」とリングに上がり続けることを決意します(ちなみにその後、度々米坂のお墓参りをしている模様で、後に獲得することになるWBC世界バンタム級のチャンピオンベルトをお墓に手向け手を合わせている様子がテレビで放映されたこともありました)。

その後、米国・ロサンゼルスに渡り、ここで日系人トレーナーのマック・クリハラと出会います。

「常識外れ」というべき同トレーナーの地獄のトレーニングに耐える日々を過ごしました(あまりの厳しさに思わず涙をこぼしたこともたびたびあったそうです)。

しかし、試合当日にはきっちりベストに仕上げてくれるトレーナーとして、薬師寺も後々まで信頼を置くことになります。

1991年6月、現在は評論家として活躍する尾崎恵一(オサム)を9回KOし、日本バンタム級王座を獲得します。

12月には中谷幸男(大鵬)を初回KOで下し初防衛、その後王座を返上しました。

1993年12月23日、世界初挑戦します。

左眼網膜剥離で11月に予定していた世界戦をキャンセルした辰吉丈一郎の代役として、WBC世界バンタム級王者辺丁一(韓国)に挑み、12回判定勝ちし、世界王座奪取に成功しました。

しかしこの試合は国内で酷評を受け、翌日の日刊スポーツでは、「薬師寺特攻奪取」との見出しを組みながらも、「すべての面で辺が上」「ジャパンマネーが判定に影響か」と痛烈に書いています(日刊スポーツ・93/12/24)。

辺陣営も判定に猛抗議と再戦を要求し、翌年7月に2度目の防衛戦で再戦しました。

この時は5度のダウンを奪った末の11回TKO勝ちを収め、辺を引退に追い込むことになります。

1994年12月4日、3度目の防衛戦でWBC世界バンタム級暫定王者に復帰した辰吉と対戦します。

フルラウンドに渡る激闘の末、2-0の判定で王座防衛に成功しました。

その後、4度目の防衛にも成功するが、1995年7月30日、愛知県体育館で行われた5度目の防衛戦でウェイン・マッカラー(イギリス・北アイルランド)に12回判定負け(1-2)を喫し、王座陥落しました。

試合後に再起も模索したが結局、この試合を最後に現役引退することとなります。

現役を通算しても、KO負けはおろか、一度のダウンすら喫することはありませんでした。

2007年4月3日、自身が会長を務める「薬師寺ボクシングジム」を名古屋市にオープンさせ後援会名誉会長アントニオ猪木から支援を受けます。

タレント活動においては芸能事務所「サムデイ」に所属しているが、2010年より「K-point」とマネージメント提携を行っています。

プライベートでは、2012年12月、18年間婚姻を続けた妻と離婚します。

離婚前には投資詐欺にあい、約1億3000万円をだまし取られていたことを明かしました。

2015年2月10日放送の日本テレビ系「踊る!さんま御殿!!」の番組の中で、18歳年下の一般女性との再婚を公表し、9月22日に、挙式・披露宴を行いました。

その時の入場曲はアース・ウィンド・アンド・ファイアーの「Let’s Groove」。

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