事件のその後

日本を震撼させたこの事件の概要は、宮崎勤は暴行し殺害した幼女の遺骨を遺族の自宅へ送りつけ、新聞社に対しては、犯行声明を送りつけるなどして4人の幼女を無残に殺害するというこの事件は、日本中に戦慄が走りました。

当時26歳だった宮崎勤は、最後まで遺族への謝罪や反省の色が無いどころか、死刑直前に気にかけていたのは鑑賞途中のDVDでした。

精神鑑定の結果では、精神性が非常に子供じみており、幼少期の孤独感から精神の発達が止まり、子供のまま大人になってしまったと推察されていたようです。

小児愛性殺人の多くは、強姦目的であることが多いようですが、宮崎勤の場合、殺害した後で裸の遺体を撮影したり、いたずらする程度で強姦はしていないと言われています。

これは、精神性が子供のままであることから、成人男性の持つ”性的欲求”とは異なるようです。

東京拘置所に入所してからは、雑誌『創』の編集長に宛てて300通ほど手紙を出しており、その中のほとんどは、拘置所内で鑑賞した漫画やDVDなどのタイトルだったようですが、死刑の方法に対する批判もあったようです。

また犯行後、15年間逃げ続ける覚悟をしていたともいわれています。

そしてその後、宮崎勤と同じような生活を送っていた人にも非難の目が向けられました

それは、いわゆる”オタク差別”がされ、宮崎勤がロリコンで、ホラーマニアとマスコミが報じたことで、以降これらの嗜好を持つ人々は、強い偏見を受けることになりました。

家族の現在(2020)は?

世間は、「犯罪者の家族もまた犯罪者」とみなすため、宮崎勤の家族や親族も悲惨な末路を辿っています。

2008年6月17日の午前に、東京拘置所で宮崎勤の死刑は執行され、死の間際まで宮崎勤から遺族への謝罪の言葉が出ることはありませんでした。

そして遺族、社会からの宮崎勤に対する憎悪はその家族、一族に向かいました。

宮崎勤の両親や2人の姉妹、親族の元には「お前らも死ね」「殺してやる」など脅迫の手紙が、多数届いたそうです。

このように社会的な圧力が、宮崎勤の家族、一族を襲い、住めなくなったことから1年後に引越しをしています。

父親は自宅を売却し、そのお金を遺族に送金するように手配した後、1994年11月に東京都青梅市の神代橋から、身投げして自殺しました。

生前、父親は「家族である私たちが責められるのはわかるが、直接関係の無い一族までが非難され仕事を失うことになったことに悩んでいる」という旨を語っていたそう。

そして、長女は勤めていた会社を辞め、すでに結婚間近でしたが、自ら婚約を破棄しました。

次女は在学していた看護学校にいられなくなり、自主退学に追い込まれました。

さらに、宮崎勤の父親には2人の弟がいます。

弟の1人は5つの会社の役員でしたが全て辞職し、自身の会社を妻名義にして退職。

もう1人の弟は離婚し、授かった2人の娘を妻に託し、妻の旧姓を名乗らせることに。

また、母親の兄には2人の息子がいました。

1人は警察官、もう1人は高校教師でしたが、退職しています。

事件の詳細が分かれば分かるほど、宮崎勤の異常さが浮き彫りになったこの悪質な犯罪。

被害にあった幼女の遺族は、宮崎勤を絶対に許すことはないでしょう。

そして、宮崎勤の家族も宮崎勤を絶対に許せないと思っているかもしれません。

現在、宮崎勤の生家は取り壊されて空き地になっているそうですが、土地の買い手がなく完全に荒れ地となっているそうです。